さわやかなヒット曲を残した山川さん逝く

  • 2017.08.15 Tuesday
  • 16:56

     この7月24日、作詞家の山川啓介さんが肺がんのため亡くなった。72歳だった。


    山川さんと言えば、矢沢永吉のヒット曲『時間よ止まれ』の作詞家として知られる。岩崎宏美のヒット曲『聖母(マドンナ)たちのララバイ』の作詞家としても有名だ。他にも、『太陽がくれた季節』『ふれあい』『銀河鉄道999』など、数々のヒット曲を作詞した。


    その一方で、本名の井出隆夫の名前で、子ども向けの『北風小僧の寒太郎』や『ちょんまげマーチ』などの人気曲も作詞した。これらはNHKの『みんなのうた』向けに作詞したものだ。同局の『おかあさんといっしょ』では、豚のブーフーウーなどのキャラクターを発案しただけでなく、番組内でうたのお兄さんが歌ういくつもの曲を作詞した。

 

    実は山川啓介さん(井出隆夫さん)には、私が軽井沢に在住していた時に大変お世話になった。


   長野県佐久市出身の山川さんは、当時南軽井沢に居を構えていた。私も東京から家族を引き連れ軽井沢に住居を移した関係で、山川さんと知り合ったのである。山川さんも、東京のいずみたくプロダクションでの仕事を辞し、自然豊かな故郷近くに戻ろうと決意。家族を引き連れ、軽井沢に住まいを新築して5、6年目の年を迎えたところだった。


    出会いのきっかけは、軽井沢で持ち上がった新しいゴルフ場の開発計画だった。ゴルフ場は水源地の上に計画されたため、飲料水が散布される農薬で汚染されるとの危惧が生まれたのだ。


   予定地は、満州開拓から引き上げた長野県佐久町大日向地区の人たちが再入植した場所だった。軽井沢の西側の浅間山麓に広がる原生林を開墾して農地にした場所である。しかし、町が観光地として発展するにともない、離農者が次々出て、専業農家がただ一軒残るだけという場所になってしまった。そこに堤義明率いる西武グループが目をつけたのである。

 

    ただ一軒の専業農家のご夫妻と私と、たった3人で反対運動を立ち上げた。1990年に入ったばかりの頃である。当時、長野県は冬季オリンピック招致に躍起になっており、西武の総帥堤義明は、JOC(日本オリンピック委員会)の会長という要職にあった。軽井沢町も西武王国の城下町と揶揄されるほど、堤義明とつながりが深く、「西武のゴルフ場計画に反対するなど正気の沙汰と思えない」と冷たい目で町の多くの人たちに見られた。

 

    私は何とか運動を広げたいと考え、東京から同じように移り住んだ文化人に声をかけて回ることを思いついたのである。

 

    この呼びかけに答えてくれたのが、山川啓介さん(井出隆夫さん)だった。他にもエッセイストの玉村豊男さんや、彫刻家の船山滋生さんらが反対運動に集まってくれた。玉村さんも軽井沢の自然にひかれて居を東京から移した新住民だった。作家の船山馨の息子の滋生さんは、玉村さんに誘われ、林の中にアトリエを構えたばかりだった。

 

    「軽井沢にはゴルフ場がすでにいくつもあるが、水源地の上のゴルフ場計画は今回が初めて。住民の命を守るため、一緒に力を合わせて闘おう」
    こうして玉村豊男さんが名付け親になり、『軽井沢水と環境を守る会』という市民団体が発足する運びとなった。


    反対運動は紆余曲折があったものの、最終的に予定地の土地取得にからみ、西武の不正が明らかになり、堤義明を国土法違反で東京地検特捜部に告発、開発断念を勝ち取ることができた(その間の経緯は、拙著『堤義明に勝った日』(三一書房)、『堤義明との5700日戦争』(緑風出版)を参照してほしい)。


   このゴルフ場開発計画を断念させた勢いにのり、私は軽井沢町長選に出馬することになったのだ。


   この選挙に山川さんはポンと100万円の寄付を申し出て、私は中軽井沢駅近くに事務所を借りることができたのである。そればかりか、「一緒に行こう」と私を車に乗せ、紳士服の量販店に行き、その場で6着の背広を新調してくれたのである。「はい、これも」「それも」と楽しそうに背広を選んでくれた山川さんの姿が昨日のことのように目に浮かぶ。「こんなにまとめて買うと気持ちいいなあ」と、ふだんボロボロの服を身にまとっていた私に優しい目を向け、本当に楽しそうだった。また、私の歯並びが悪いのを目にした山川さんが、「選挙前に行くように」と佐久市の歯医者さんを紹介してくれたこともあった。その歯医者は山川さんの友人であった。なんと奥さんが実は「おかあさんといっしょ」のブーフーウーのモデルになった人だということをあとで知らされ、思わず吹き出したのも、なつかしい思い出だ。

 

    町長選挙は敗れたものの、そのあとに行われた町議会議員選挙に、私は再度出馬し、こちらは晴れて当選することができた。山川さんは事務所に高級ワインの瓶を持って「本当に良かった」と祝福に現れた。

 

    その後も私の子どもたちが通う学校の父母会の役員に山川さんがついたこともあり、交流は続いた。その学校は群馬県安中市にある新島讓ゆかりの新島学園だった。山川さんの息子さんもここの卒業生だったが、大学まで出て「僕は都営バスの運転手になりたい」と告げたという。山川さんが「よく言った」とそれを誉めたという話をあとで聞いた。かように純粋な人だった。


    もう一つ、エピソードがある。先の町議選に私が出馬した際に、何と山川さん自ら「岩田かおる」の歌を書いて、手書きの歌詞を渡してくれたのである。「君は少年のような純粋なこころで政治をやろうとしている。君に風よ、吹け」そんなような歌詞だった。

 

    いま、鎌倉に居を移し、私は再び政治の世界に挑もうとしている。山川さんが生きていたら、市長選挙応援の歌でも書いて送ってくれたかも知れない。現職市長に挑むことは、北風に向かう子どものようなものかも知れない。北風小僧の寒太郎の詞でも口づさみながら、頑張りたい、そう私は願っている。山川さんの訃報を耳に、そんな思いを強くした次第である。

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