私の文章遍歴−−こんな文章を40年以上書いてきました

  • 2017.09.23 Saturday
  • 16:44

    私の肩書きは、フリーのジャーナリストである。一応、40数年文章を書いて生活してきたことになる。著書は、24歳の時に出版した『若者よ、なぜ死に急ぐ』から、最新刊の『ひとりからの反原発マニュアル』まで13冊ある。以下に私の文章遍歴を記してみたい。


‐説デビュー時代


    私が一番最初に書き始めたのは小説である。都立三鷹高校在学中、高校紛争が起きた。当時の文部省(現在の文部科学省)が「三校禁」という通達を全国の学校長に出したことがきっかけだった。つまり、高校生の政治活動を禁ずる趣旨で、三校以上の生徒が集まることはいけないとした通達である。当時はベトナム反戦運動が華やかな頃で、高校生もデモに参加する動きが出始めていた。これを警戒する国が、先の通達を出した次第である。これに若者たちが反発した。都立日比谷高校から火の手があがり、わが三鷹高校も3か月にわたり授業をボイコットする騒ぎが起きた。当時高校2年だった私もこれに参加した。文部省に従おうとする校長に反発し、校長を囲んでの全校集会を連日開くという行動に打って出たのだ。しかし、結局、何も変えることが出来ず、紛争は生徒側の敗北に終わった。3年生になると仲間は、がらっと変わり、受験勉強に精を出すようになった。私はひとり挫折感を味わい、勉強をする気をなくしていた。毎日新聞の投書欄に「大学拒否宣言ー私が大学へ行くのを拒否する理由」と題した文章を投稿、これが全国版の紙面のトップに掲載されたのはこの頃である。


    受験勉強を放棄した私は、小説を書き始めた。18歳の時に完成した小説が『晩鐘』である。フランスの作家ロマン・ロランに心酔していた私は、彼の伝記作品『ベートーヴェンの生涯』を手本に、老いた画家が亡くなる場面を50枚の小説に仕上げた。これが旺文社の学芸コンクールの小説部門で入賞したのである。


∪人式で全国代表を受賞した時代

 

    大学へ行かなかった私は、同じように受験を拒否した若者たちとミニコミ誌(マスコミの雑誌に対して、自費出版の小さな雑誌を当時ミニコミ誌と呼んだ)の編集事務所を神田神保町に構えた。


 この体験を「20歳(青年)の主張全国コンクール」に応募したところ、千人を超える応募者の中から最優秀賞を受賞した。成人式の日に東京文化会館で開催された式典で、私は 皇太子同妃両殿下 の前で「誓いの言葉」を読むことになった。ふつう「誓いの言葉」は明るい希望に満ちた内容になるのが通例だ。ところが、東京文化会館の舞台で私は事前に用意した巻物とは違う内容の「誓いの言葉」を発表した。「今の若者には希望がなく、閉塞感にとらわれている。生きる希望もない」との本音を言葉にした。サンケイ新聞がこのハプニングを社会面の記事にしたことを覚えている。当時NHKが成人の日に特集番組を組んだ。私は20歳の若者を代表して出演したが、ゲストに出た作家の檀一雄さんになぜか気に入られ、石神井公園の家に招待されるようになった。「若い人たちともう一度文学運動をやりたい」というのが檀さんの願いだった。一緒に雑誌を出しましょうなどと話をしているうちに、檀さんは身体を壊し、九州の能古島へ転居してしまった。

 

ルポ・ライター時代

 

 仲間と雑誌を何回か出すうち、こうしたミニコミ誌や同人誌を販売してくれる書店がなかなかないことを痛感した。そこで、ミニコミ誌や同人誌を専門に扱う書店を自分たちで設立することを思いたったのである。こうして私が20歳の年、恵比寿にミニコミ誌・同人誌の専門書店『苦悩舎』を開くこととなった。店の名前は当時愛読していた作家、高橋和巳が全共闘世代の苦悩を書き「苦悩教の始祖」と呼ばれていたことにちなんでつけた。この店には全国の若者が出す自費出版の雑誌や本がたくさん集まった。品揃えが面白いことから、新聞やTVにもたびたび取り上げられるようになった。その一つが当時若者に絶大な人気を得ていた『平凡パンチ』だった。編集者と仲良くなった私はのちに書店が倒産したあと、結婚を考える女性と出会い、仕事を求めて編集部を訪れることになるとは思いもしなかった。ここで私はライターとしての仕事を得たのである。さらに、書店の常連客の一人に、当時渋谷で劇団『天井桟敷』を主宰する寺山修司さんがいたことも運命的な出会いと言える。私は寺山さんに気に入られ、新しい演劇をやるたびに「ぜひ取材に来て」と電話がかかってくるようになった。寺山さんとは彼が亡くなるまで何度も交流した。とうとう、葬式の記事を書くまでの付き合いとなってしまった。


ぅ┘奪札ぜ紘時代

 

    取材を介して私は東京・三田にある老舗の古書店の息子さんと知り合った。古書店は父親が病死したあと彼の母が経営を継いでいた。彼はのちに国連に仕事を得てニューヨークに移住することになった。実は、この彼に会いに渡航した母が事故で亡くなってしまうのである。運悪く当時大ニュースとなった大韓航空撃墜事件の被害者の一人となってしまったのである。この事実を私は「大韓航空撃墜事件で消えた一つの灯」と題するエッセイに書いた。これが日本エッセイスト・クラブにより、1984年に発表されたエッセイの中で最も優れた作品として選ばれ、文藝春秋から出版されることとなった。

 

ゼ然保護の本を執筆した時代

 

   私は『平凡パンチ』が休刊したのを機に、東京から軽井沢に転居した。ここで自然保護運動に関わるようになり、町議会議員にもなった。運動の経験をいくつかの出版社から本にするように依頼され、何冊もまとめたのはこの頃である。


γ媛箸箸虜堂饂代

 

 軽井沢に移住した30数年前、都内の仕事で遅くなったりした時に寝泊まりできる場所を私は北鎌倉に求めた。古民家を購入したのである。のちにここが仕事場になった。


   軽井沢を引き払い居住することになったのが、この家である。美智子さまが皇太子妃時代に侍従をつとめていた女官が住んでいたのが、この北鎌倉の家だった。一人住まいの彼女が亡くなり売りに出ているのを購入したのである。縁を感じざるを得なかった。


   軽井沢から大型犬のラブラドールレドリバーを連れて北鎌倉に転居してからの生活を、私は再びエッセイにまとめた。龍馬と名付けた犬はガンで足を切断したのだが、この犬の亡くなるまでの経緯を「三本足の龍馬君へ」と題したエッセイにまとめたのである。これが第3回恋文大賞の審査員賞を受賞した。審査員をつとめたのが、檀一雄さんの息子の檀太郎さんだった。京都の都ホテルで開かれた受賞式で、私の作品を女優の檀ふみさんが朗読してくれた。「お父さんとは生前もう一度文学運動を起こそうと話をしていました」と私が告げると、檀太郎さんもふみさんも涙ぐんで耳を傾けてくれた。

 

     ざっと私の文章遍歴をしるしてきた。長いようで短い遍歴だったように思う。池田満寿夫さんや赤塚不二夫さんたちとの交友もあったが、そのことはまた別の機会に記したい。そして今、私は鎌倉での経験を本にまとめたいと考えている。

コメント
恋文大賞の審査員賞をとった『三本足の龍馬君へ』は、涙なしに読めません。壇ふみさんも受賞式で泣きながら読んだと聞いています。
  • 愛読者
  • 2017/09/23 7:48 PM
あの天才劇作家&詩人、寺山修司さんと生前知り合いだったなんて、すごい、すごすぎるぅ~~!!!
  • 演劇青年
  • 2017/09/25 7:00 PM
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