石牟礼さんから教えられた無上の隣人愛
- 2018.02.12 Monday
- 11:41
作家の石牟礼道子さんが亡くなった。石牟礼さんと言えば、水俣病に苦しむ患者さんたちの姿を描いた『苦海浄土』3部作で知られる。患者さんたちの支援組織『水俣病対策市民会議』(のちの『水俣病市民会議』)の結成にも尽力したことでも知られる。『苦海浄土』は、(株)チッソが不知火(しらぬい)海に垂れ流した有機水銀に汚染された魚を食べて、身体が痺れて動かなくなった患者さんたちの姿をリアルに描き、大きな反響を呼んだ。「水俣を豊かにした会社(親さま)によって、自分たちは歩くこともきちんとしゃべることもできなくなってしまった。地獄はあの世にあるのではなく、この世のことなのです」そんな患者さんたちの声を石牟礼さんは、全身で受け止め、優れた文学作品に仕立てた。
忘れもしない私が20歳になるかならないかの若い頃、石牟礼さんにお会いする機会があった。
高校紛争に敗れた翌年(1971年)、私は三鷹高校の三人の仲間と沖縄に出かけた。私は高校卒業に際して「大学拒否宣言」を毎日新聞に発表し、全国の闘争世代に呼びかけミニコミ誌(マスコミに対抗する小さなメディアのこと)の出版社『精神の独立社』を神田・神保町に設立した。当時敬愛していたフランスの作家ロマン・ロランが、「腐敗した文明社会を改革するには今こそ自立する社会人の精神の独立が必要だ」と説いていたことにちなみ、社の名前をつけたのである。そこで発行する雑誌で、沖縄の基地問題を特集しようという話になり、興味をいだいた仲間と現地を訪れることにしたのである。沖縄探訪のあと、仲間と別れ、私は単身、水俣市と広島市を訪れる計画を立てた。水俣病の問題と広島の被爆者の問題を、やはり雑誌に取り上げようと考えたからだ。
水俣市に着いた私は石牟礼さんの家を訪問した。高校を出たばかりの世間知らずの私は、紹介もなしに、前々年『苦海浄土』を刊行したばかりの石牟礼さん宅を訪ねたのである。
石牟礼さんは東京から来たと告げた私を家に入れ、こころよく雑誌のインタビューに応じてくれた。そればかりか、「水俣を見るには一日では足りない。泊まっていきなさい」と誘ってくれ、石牟礼さん宅に泊めていただくことになったのである。石牟礼さんは作家臭が全くなく、とてもやさしいおばさんという雰囲気だった。石牟礼さん手作りの料理をふるまわれ、食後一緒にチッソの水俣工場まで行くことになった。工場の正門前では、チッソ相手に損害賠償を求めた第1次訴訟の原告団の患者さんたちが座り込みをしている最中だった。石牟礼さんとともに私も座り込みに参加させていただくことになった。チッソ水俣工場に着くまで市内を一緒に石牟礼さんと歩いて行くと、街中で何人もから声をかけられた。みな石牟礼さんとは旧知の間柄にあるようで、彼女も気さくに「○○さん、調子はいかがですか」と声をかけて、何とも温かな雰囲気だった。
夜になるまでチッソ水俣工場前で座り込みをしたあと、石牟礼さん宅に戻り再び手作りのおいしい料理をふるまわれた。そのあと、水俣に寄せる彼女の思いを直接耳にさせていただいた。天草生まれの石牟礼さんは小さい時に水俣町(現在の水俣市)に移住した。「幼い頃から親しんだ不知火海は、漁師たちに海の幸をもたらす、まさに豊穣の世界でした。その豊かな海が有機水銀の害毒を撒き散らし、住民を生涯苦しめる苦海になるとは思いもしませんでした。この世の不条理を見る思いがします」石牟礼さんの静かな語りは、20歳になるかならないかの私にとって衝撃的だった。石牟礼さん宅には一週間近く泊めていただくこととなった。
帰る前日、私はチッソ水俣工場に潜入した。「まだチッソは罪を認めようとせず、水銀を垂れ流している」との話を患者さんたちから耳にしたからだ。
従業員のふりをして人ごみにまみれて正門から中に入ることに成功した私は、工場内で排水口を探して歩き回った。やっとのこと、水俣湾に面した場所に排水口が突き出ている現場を眼にすることができた。驚くことに直径約40センチから50センチもの太い排水口から、鉛色の排水がどくどくと海に注がれていた。まさに水銀としか見えない色の排水である。私は必死でカメラのシャッターを押し続けた。その時、背後に警備員が立っているのに気がついた。「何をしているんだ」との声がやむかやまないかの間に私は全力疾走で逃げた。右へ左にさまよったあげく、幸い工場への引き込み線の線路を見つけることができた。線路沿いにいのちからがら走り、何とか工場の外へ出ることに成功した。
1971年当時も、まだチッソが排水を垂れ流していた事実を示す写真を私は手にすることができた。翌日、私はこの土産を持ち石牟礼宅をあとにしたのだった。
石牟礼道子さんの訃報を聞いて、47年も前のことを思い出した次第である。彼女から教えられたのは弱き者への無上の愛の大切さである。苦しむ民とどこまでも寄り添う石牟礼さんのような作家はもう出ないのではなかろうか、そう考えると残念でならない。
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- comments(11)
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岩田さんの支持にまわらなかった
鎌倉市議会議員全員と市民の民度の低さが嘆かれる
「水俣病を引き起こしたチッソの社長、江頭豊氏は、皇太子妃雅子さまの母方の祖父。彼は水俣病被害者に対し『死んだ魚を食べる乞食がカネをせびりに来たな』『腐った魚を食べるから汚い病気にかかる。伝染るから近つ¨くな』(株主総会で一株株主の患者達に)と恫喝したり、暴力団を雇って患者や新聞記者襲わせた。この時、アメリカ人カメラマン、ユージン・スミス氏(水俣病の写真を世界に発信していたことで有名)が脊髄を損傷。片目を失明した」
高山文彦「2013年10月に熊本を訪問された天皇皇后が、水俣病の胎児性患者とお会いになりました。そのきっかけを作ったのが、作家の石牟礼道子さんでした。評論家の鶴見和子さんをしのぶ山百合忌で石牟礼さんは皇后とご縁があって、『人を好きだと思っても好きと言えん人たちでございます。患者さんたちにぜひ会ってください
』と手紙も出していらしゃった。」
山折哲雄「石牟礼さんがお出しになったエツセイ集『花の億土へ』(藤原書店)のなかで胎児性患者たちから聞いた思いとして、これ以上争っても自分たちに苦しみが残るだけなので、『私たちはもうチッソを許します』という言葉を紹介していますね。」
高山「患者さんが『チッソを許す』と言ったことがいちばん大きかったと思います。」
皇后陛下がお会いになり、患者さんたちもチッソを許すと言った話は感動しますね。